製造工程

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1.意匠

 

2.染色

 

3.整経

 

4.機仕掛

 

5.製織

 

6.検品

 まゆから生糸ができるまで
【煮繭】
まゆを煮て蛋白質で出来たセリシンをやわらかくし糸がほぐれやすいようにします。
【粒づけ】
煮繭したまゆを索緒機によって外側の不要な糸を取りのぞくと1本の切れ目のない糸が出て来ます。
その糸を集緒機を使い、目的の糸の大きさに合わせて(5~8粒)上の小枠に巻き取って行きます。 【撚糸】
1粒のまゆ糸の大きさは2.5~3.2デニール位の大きさです。織物の目的に合わせて撚糸します。


 博多織の歴史
博多織のルーツは、中国。
博多織と言えば、はなやかな紋織と献上柄に代表される平織の2種類ですが、その起こりは鎌倉時代。博多の津で生まれた満田弥三右衛門が、承天寺開山の聖一国師とともに嘉禎元年(1235)に宗の国(中国)に渡ったことから始まります。
弥三右衛門は六年間宗にとどまった後、朱焼、箔焼、そうめん、麝香丸、織物という五つの技術を身につけて、博多にもどりました。これらの技術は全て博多の人々に伝えられましたが、ただひとつ、織物の技術だけは満田家の家伝としました。それは広東織と呼ばれ、織りが細かく固く、大変丈夫だったということです。そしてこれが博多織の起こりであると伝えられています。
それから三百年後、弥三右衛門の子孫は再び中国(当時は明)に渡り、織物の研究をした後帰国。組紐を家業にしていた竹若伊右衛門とともに織物の改良を重ね、琥珀織のように生地が厚く、浮線紋や柳条という模様のある織物を作り出すことに成功し地名をとって覇家台織と名付けられ、現在の博多織となりました。
黒田長政公の献上博多帯
慶長五年(1600)、天下は徳川家康のもとに平定されました。そして、黒田長政は関ヶ原の戦いでの活躍を認められ、筑前五十二万石の大名に出世しました。博多織は、この長政に大変気に入られ、藩の軍旗に使われただけでなく、幕府への献上品とされました。毎年三月に帯地十筋、生絹三疋を恒例として献上、ここから「献上博多帯」の名称が生まれることになったのです。献上柄と呼ばれるのは、「独鈷」(インドの護身用武器)と「華皿」(仏の供養のために花を入れる皿)を図案化したものに縞柄を組み合わせたもの。当時、織り出されたものが、そのまま献上柄として今に伝えられています。
意匠図 染色
織物設計にしたがって、方眼紙に図案を拡大して写し、繊維別に色を変えて、一目一目、たんねんに塗り分けしていきます。 色見本によって、釜に染液をつくり、タテ糸、ヨコ糸を染めます。織物の生命を左右する重大な工程の一つで、色見本通りに染め上げなければなりません。
整経(せいけい) 製織準備(せいしょくじゅんび)
博多織は、5000本から8000本ものタテ糸が使われています。タテ糸を、必要な長さと本数だけ揃えるのが整経です、80個前後の糸枠から出た糸を指先に全神経を集めて、ドラムに巻き取っていきます。 最後に、意匠工程、タテ糸準備工程、ヨコ糸準備工程が整い、織機の各部分がスムーズに作動するように調整します。
力織機(りきしょくき) 製品
製織準備が完了すれば、ジャガード機にかけられた紋紙の指示により、献上に代表される全通柄や、紋織りの六通柄が織り上げられます。 製織された織物は、ひとつひとつ仕上げ検査され、合格製品には組合商標を貼布します。

筑前織物グループ


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